「よりそう」努力をつづける。

旦那がプログラム関連じゃない本を買っていた。「珍しいセレクトだね」とか言いつつ、この本が出た時の記者会見的な映像が浮かぶ。続きが気になり、炒め物しながら、ドライヤーしながら読んでいると「今はどんな本読んでるの?」と聞くチビ達。

謝るなら、いつでもおいで

謝るなら、いつでもおいで

佐世保小6同級生殺人事件」に関する本。できるだけわかりやすく説明してみる。「とっても例えは悪いんけど」と前置きをした上で、同じマンションにとても仲良くさせてもらている家族がいるので、我が家とその家族を加害者と被害者に見立てて話をしてみた。言葉が見つからない様子。そうだと思う。
「ねえねが〜した」「お友達から〜された」など、子どもたちのSOS。感じ取った悩みの程度に応じてテキトーに返答したり、すごく考えて丁寧に返答したり。「思いを伝えたい」と思って丁寧に慎重に紡ぎ出した言葉でも「そうじゃない」「なんか違う」という顔をして聞いていることもある。その日の感情でお互い上手く気持ちが通じないこともあるけど、できるだけボタンのかけ違いを少なくしたいと思う。親以外のなんでも話せるし、お灸も据えてもらえる「アニキ的存在」「お姉ちゃん的存在」のオトナの存在を作ってあげたいとも思う。
我が家には「コドバ」を獲得し始めた子がいる。最初は泣き声だけ、「ん」「あぁあ」、「ブッブ あか」と話せるようになって、表情や視線の先にあるものに少しずつ重きを置かなくなった自分を反省する。表面的な「コトバ」にとらわれず、「ココロ」に寄り添えるお母でありたいと思う。


我が子が被害者、そして加害者になるなんて親は思っていません。
だから、父さんみたいに苦しまないために、
同じ子を持つ大人に言えるとすればひとつだけ。

「子どもの全ては理解できないと分かった上で、理解する努力を続けてください。
それぞれの家が、それぞれのやり方で」
御手洗さん(被害者の父)の言葉は、子育て中の私には重たい。でも、肝に銘じて子ども達を育てていきたいと思う。


いつからか「凶悪事件」が起きると「精神鑑定」で「(やっぱり)精神異常者=だから仕方ない」的な報道が、流れになっている気がして、なんだかなぁとおもっていた。その「なんだかなぁ」をうまく書けずにもやもやするのだけど。
我が家、きょうだい喧嘩も日常茶飯事。この事件とはことの程度は違うけど、2歳の子なりのごめんなさい、小学生なりのごめんなさい、大人のごめんなさい。それぞれの年齢に応じた「ごめんなさい」があると思う。精神鑑定をした上で、その状態に応じた「ごめんなさい」をキチンとした上で「その先どうするか」を考えていかなければならないのだけど。
その辺りのことがこの本には書いてありそうなので読んでみようと思う。

少年たちの贖罪: 罪を背負って生きる

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